Archive for July, 2011

July 25th, 2011

『何でもありの迷宮』

プロフェッショナルな世界のこと6〜バンドームの謎

Place Vendôme、プラスバンドームはビジューの世界的な中心地。パリのど真ん中に位置し、有名どころメゾンのブティックが軒を連ねるこじんまりした四角い広場。

そのバンドームのすぐ横に郵便局があり、便利なのでたまに利用する。働くアトリエが広場にほど近く、お昼休みの間に手紙や小包を出しに行く。でも、ついでだからといってウインドーを見ていると、お弁当を食べる時間が無くなってしまう。だから広場を一気に横切って行く。その時肌に感じるのは、バンドーム広場のミステリアスな空気感。吹き抜ける風と歩くと、広場に重ねて存在している別次元の世界へ行ける気がする。

…広場の中央には、目に見えないガラス張りの迷宮がある。迷宮は部屋や通路が入り組んだ迷路のような建物。ラビリンスといえばギリシャ神話の中でミノタウルスが閉じ込められていた。心の目に映る迷宮の壁をたくさんのツーリストがすり抜けて行くのだが、私にはむしろ彼らの方が透けて見えてくるから不思議だ。何も無いはずの所の、空気の密度がやけに濃い。

関わる人の憧れや思い入れをたっぷり吸い込んで、白昼夢をみせるバンドーム広場だが、働くのは生身の人間。私と同じく、怠け者で適当で文句ばっかり行って、次のバカンスを指折り数えてる。

現実の世界でお昼ご飯を食べ終わると、生のバンドーム白昼悪夢を見る事が出来る。やはり謎に満ちていて、どうしたらそうなるのか理解できない、筋のおかしな話が満載。品番は消え、文字が逃げる。計画はゲームのごとき、ルールは不明。

バンドームの世界にはラビリンスの現実が混ざり込んでいる。

July 25th, 2011

『ノンと言う喜び』

プロフェッショナルな世界のこと5〜パリデザイナー症候群

ある時、友達のフアッションデザイナーに愚痴をこぼしてみた。デザイナーと付き合うのは難しいと。もちろん彼がデザイナーだと知っていて。

デザイナーとの仕事は、出来栄えや、成果、考え方に広がりが出る。思い通りに行かない事がある反面、思いも拠らない所へ行ける。失敗したと思っていても意外に評価され、またその逆のことが起こる。仕事として確かに面白い。

ただしデザイナーとの関係は、精神的な学びにも繋がっているのが興味深く同時に問題だ。そこでかなり心地よくないことが起こるから。
よくあるのはデザイナーの決断を受け入れがたい事。でも頭を柔軟に出来れば彼らのこだわりも見えて来てこの状況を楽しむ事さえ出来る、少なくとも順調に計画が進んでいる時は。
相反して、会う度にデザイナーの意見が変わるような時は要注意。プロの花形デザイナーでもどうしたいのか解らなくなることがあるだろう。そういう場合は、心静かに対応しないといけないが簡単ではない。

レステゼン、「Restez zen」直訳すると「禅の状態にとどまる」か。フランス人は”zen”この言葉を頻繁に使う。うっかり油断しているとフランス人に禅を説かれるはめになる。そうなると余計に頭に血が上る。

「全然っ違う!」と言われ、やり直している矢先に電話がかかる。「やっぱりあれがいい。」もうやり直してしまったから、そのあれは無いよ。でも、全然違う!って言ったよね?「違う」と言われ新たに受け取ったデッサンと以前に渡されていたのを比較してみる。前のデザインは具象で後のは抽象…それこそ私が言いたい「全然っ違う!」…で、どうすんの?どっち?まず決めてくれる?

「ノン!」と言われても、しばらくは手を着けずに置いておく。それから次の機会に見せたら「ウイ」に変わるかもしれないから。でも気をつけないといけにのは、こういう反応はデザイナーのアイデアがまとまっていない証拠。だから、次に見せたら「ノン」になる可能性もある。そうなるともう何もしない方がいい。彼らにもいろいろ事情があるのだろう、追いつめてはいけない。自分の首を締めるようなものだから。今日は「ノン」でも明日は「ウイ」なら良しとしよう。

アイデアの有無や実力の程はさて置き、彼らがとりあえず「ノン」と言っている疑いも、実は有る。日本人はとりあえず「Yes」と言うなんて批判されたりするけど、フランス人は逆。それを象徴するかのように、まだほんの子供、特に女の子が「ノン」を連発するのを少なくなく目撃する。両親が何も言う前にまず「ノン!」、本当は「ウイ」な時も、「ノン!」。こういう教えずとも学んでしまう習性こそ伝統と言えるかも、思わず感心して首を降る。

デッサンは書きなぐり、出来る出来ないでなく、はなからする気なし。具体的なアイデアなんて最初からないみたい。計画は風の向くまま気の向くまま。変更に次ぐ変更。完成間近になっても「んーこことここのパーツを取り消して、これを付け加えてちょーだい!」また、その後驚きの発言「もう一個同じものを作ってちょうだい。でも一個目で取り消したパーツを付けて」。もう「ノン」と言うのを楽しんでいるとしか思えなくなって来る。

『どんなによく出来ていて、これでいいと心で思っていても、「ここをちょっと」と言いたいものなんだ』とはデザイナーの友人による弁。「そうなんだよね」とあっさり告白してくれた。そうか…。「ノン」という喜び、これは確かにあることがここでも証明された。ちなみに彼はパリに住む日本人。ということは、これは特にパリを拠点に活躍するデザイナーに共通する症状といえるな、やっぱり。

でも、何はともあれ、ここまで試行錯誤を徹底して結実するビジューの出来栄えは特別。細部までこりに凝ってオリジナリティーは一線を画す。予算の上でも納得させるものがある。こうなってくるとデザインの紆余曲折の必然性にも説得力が出て来る。

そうはいっても、どうしたいかわからないなら「Yes」と言っておけばいいのに、なんて思うのはいかにも日本人的な発想なのかな。じゃあ代わりにフランスで流行の言葉、「Restez zen、ちょっと待ってください。落ち着いて」とでも言ってみるか。私達は皆、修行中の身なのだな。

プチフランス語講座:
“Restez zen”[レステ ゼン](心静かに、落ち着いて)、oui[ウイ](はい)、non[ノン](いいえ)

July 25th, 2011

『アイデアは誰の物?』

プロフェッショナルな世界のこと4〜デザイン登録あれこれ

V** C***のジュエリーと言えば、お花の形のチャーム、貝がキラキラ虹色に光るかわいいやつ。また、このお花のシンボルからつい想像するのは、V*****の超有名モノグラムシリーズの鞄の模様。最近ではこの模様をチャームにしたアクセサリーも雑誌で良く見かける。どちらもブランドを代表するアイコンだけれど、これらはなんだか似ている。

こんなふうにデザインがシンプルだと似ることは多々ある。そうなってくると問題なのは、どっちのが、どっちのに似てるのか。V**C***とV******の例はあくまで例にすぎないし、そもそも似てないかもしれない。だから、それはここではどちらでも良い。でも、昔から方々で使われているシンプルなシンボルを、誰かが自分のものだと言い出したら怖い。シンボルはブランドのアイコンになって会社の売り上げに多く貢献するし、ブランドイメージを左右するから「勝手なことをするな」と言いたくなるのもわからないでもない。そのままにコピーして儲けようとする輩が多すぎるのも確かだ。

ビジューのデザイン登録についてアトリエで周りに意見を聞いてみたことがある。皆どうしているのか、した方がいいのか。丁度、デザインを巡る裁判の話題も出ていた。

その頃、大きな所が小さな所をデザインコピーに関する問題で訴える出来事があったよう。興味深かったのは、コピーでは無い事を主張するための資料に、江戸時代の日本の物の写真が用意されていた事。実は双方がこの日本物にそっくりなのだとか。思わず笑ってしまう。江戸時代というと、その大きな所がまだ創設されていない時代だ。

どういう事情で裁判沙汰に発展したのか知らないし、結局どうなったのか知らない。どれがどれに似ているのかも見ていない。でもこの話には多いに不安にさせられたし、面白くないと心底思った。こういう話題に個人のビジュークリエイターが敏感に反応しても当然だろう。私はビジューティエとして働くと同時にクレアトリスとしての自負がある。

結局、デザイン登録に関して皆から返って来た返事を総合すると、登録は裁判沙汰になった時のためで、攻撃に使うか、又は守りに使うかどちらかになる。すぐに考え得るのは、大きな所から攻撃されるような事態。そんな事になれば守らないといけないのは必死。だから登録してあると役に立つし心強い。逆にもしかして、ビジューが大いに成功してコピーが出回るような事態が発生したとしたら、またデザインをそっくり横取りされたら。その時に黙ったままでいるつもりかどうか。それくらいのことと言う見解だった。

そこで話を自分に引きつけて考えてみると、まずコピーして楽に儲けようなんて気はさらさらないが、それでも守りは有っていい。しかし、誰かを訴えるなんてことがあるのか疑問が湧いた。そんなこと考えたくないし、気持ちが良くない。

それから、話は少々脱線するかもしれないが、そもそもアイデアとは神聖な所にあり共有財産でもあるかんじがする。それを皆が使える形に変えるために一時期預かるイメージだ。だからアイデアや、それから発展した物も含めて、それらが自分に所属するものとして主張する事はどこか正しい行為な気がしない。理論的には。でも、アイデアを取り出してこの世に出現させるためにはそれなりのエネルギーが必要だ。人生や全財産を懸ける場合だってあるし、そんなことが実際ほんの身近にある。それは尊敬されるべきだと主張したいし、なにより心情的にそっくりそのままにコピーされたら絶対に腹が立つだろう。

結論、やっぱり攻撃だってしないといけない。

アイデアからデザインへ、そしてシンボルやアイコンへと昇華させると手放したくなくなる。そしてそのための代価は高くなる。登録料も高くなる。

プチフランス語講座:
la idée[イデ](アイデア)、le dessin[デッサン](デザイン/デッサン)、le icône[イコン](アイコン)
la nacre[ナックル](貝殻内部の真珠層)

July 21st, 2011

『ポン』

季節の風物詩5〜労働者の権利

五月の風物詩は『ポン』、米菓子のポンか又は麻雀のポンか、その実は橋。

日本で言う所のゴールデンウィークは、フランスのGRAND WEEKEND、 大型連休なら5月。週末を挟んで連休にし、どこかへ出掛ける、又は家でのんびり。あまり仕事のはかどらない月。でも”連休にする”とは?つまり、自動的にはゴールデンウィークのような大型連休にならない。『ポン』しないといけない。

フランスの連休事情はというと、まず労働者にとって、ラッキーな年とアンラッキーな年がある。それは、祝日がどの曜日にはまるかで決まる。というのも、フランスでは振替休日が無い。だから、祝日がやたらと土日にはまってしまう年はアンラッキー。有給休暇の日が少なくなるし、普通の週末と変わりない。大いに損したかんじになる。でも振り替えて帳尻を合わせる事はしてくれない。

逆にラッキーなのは木曜日に祝日がはまる年。金曜日に有給を取って4連休にする。ついでに月火水と取れば、前の週の土曜日からで9連休。さらに、その前の週の金曜日も有給を取れば、11連休。さらにさらに…と続くわけだ。これを『ポン』と呼ぶ。休日と休日に橋を架ける。5月は祝日が多く、飛び石連休状態になりやすい。石に橋を上手にかけてやると素敵な連休の出来上がり。

こんなことが会社で許されるのかと疑問に思うかもしれないが、余裕で許される。労働者の権利だから。皆やるし当たり前のかんじ。もちろん前もって交渉しないといけないし、嫌みの一つも言われる可能性はあるが。
同僚フロランスは、彼女のボスに『ポン』で大型連休を取る相談をしたところ、「シャンパーニュを皆に振る舞うならいいよ」と言われたらしい。そのシャンパーニュ、キリット冷やしていただきましたが、ボラボラ島だったかタヒチだったかに行く彼女、それくらいのパンチは浴びせられても平気だろう。しばらく欠勤していたようだが、気がついたらいつもの作業台の前にいた。日焼けと増えたタトゥアージュ以外はいつも通り。

「有給をとるのは労働者の権利」フランス人の旦那様が日本で働いていた頃、会社の日本人ボスに言われた言葉。彼もそう思って有給を使っての連休を申し込んだ。のだが、この言葉の後にこう続いた「だが、義務ではない。」『ポン』失敗、日仏の溝に橋は架からず。

興味深いのは、この”労働者の権利”、日仏で意味合いが大きく違ってくる。フランスでは”権利”なので守られなければならず、転じて有給休暇は義務となる。
銀行で働く知り合いのドゥニーは、ここのとこ会社を休んでいる。だからといって出掛ける予定はないし、手持ち無沙汰で退屈しているそうだ。仕事は順調で乗っている今、仕事を休む理由が彼にはない。でも、一年の区切りとして定められた期日までにその年の有給を使う必要がある。”権利”があるのだから。ちなみに、会社は未消化の有給分を賃金で支払う方法もあるのだが、そうしたくない。だから有給を使う事は、会社と良い関係を保つ上で義務となる。

対照的に、日本では有給休暇を使用できないのが当たり前のかんじかもしれない。こんなことに抗議するためにも、労働の日、5月1日がある。デモ行進、マニフェスタシオンはフランスの十八番、もっとも最近は盛り上がりに欠けるらしい。その話はまた別の機会にするとして、メーデーの日はスズランの日でもある。駅周辺は3メートル間隔でスズラン売りが並び、それこそスズなり。夕方になるとこぞって1ユーロ1ユーロと連呼し、市場の叩き売りのような様相をみせる。でもその甲斐あってか、道行く人の手に手に、スズランの小さなブーケ。

これはそんなかわいい日に起こった、街角の一コマ。

そもそも、たちの悪そうなスズラン売りだったのに、買おうと思ったのがいけなかった。顔が浅黒く、ひょろっと背の高い若者、彼のスズランも一本ひょろりと鉢植えで5ユーロ。「2ユーロなら」それで話がついた。
スズランを受け取りつつ、2ユーロ硬貨を手渡す。が、とっさにこっちは硬貨を離さず、あっちはスズラン離さず。しっかり掴み合って両者譲らず、道の真ん中でがっぷり4つ。力では圧倒的に不利、相手の顔は笑っている。結果、土が付いたのは地面に叩き付けられたスズラン…。

2ユーロはもぎ取られ、スズランも手に入らずじまい。これはくやしい、どうにかして一矢報いてやりたいところだが、さらに後悔することになっても困るので、ここは引き下がっておこう、今日はこのぐらいにしといたろ。それはそうと値切りすぎたのか。

何はともあれ、せっかくの連休のチャンスなのに、出掛けもせずに家の近所で2ユーロを取り合うなんてしみったれている。パリで小さくまとまってる場合じゃない。でも生きてるってかんじ?万歳、労働者階級。

5月は気候も良い、『ポン』して都会を離れたい。山に行けば、スズランもそこら中に咲いている。特別に美しい一本を選び愛する人に贈れば、心に橋をかけるかも。

プチフランス語講座:pont [ポン](橋)
muguet [ミュゲ](スズラン)

July 21st, 2011

『やっぱりお花見』

季節の風物詩4〜フランスの中の日本

四月の風物詩は『お花見』、フランス的には桜の木の下でピクニック。

パリで桜といえばパークドソーparc de sceaux 、桜が見事な公園。そう聞いたからと訪れてみると、ソー公園内は広く、桜の木が植わっているのはどうやら敷地の極一部。日本のように親切に「こちらが桜の場所ですよ」と示す目印など当然無く。なので、どの方向へ歩いて行けば良いのかわからない。
ところが耳をすましていれば迷う事なく行き着けるとくる。耳?鼻ならまだしも、それこそ花の香りがするとかね。なに犬じゃあるまいし。いや、だから簡単な話。日本語が何処とも無く聞こえて来たら、それについて行けば良い。

4月の陽気で公園はかなりの人出。そんな中でも、母国語センサーは、犬の鼻なみにするどく日本を嗅ぎ分ける。というか日本語に反応せずにはいられない。切れっぱしの会話が、ふと横切った香りに気付くように意識の中に飛び込んで来る。

お目当ての桜を特に探すということも無くフワフワ歩く。行楽日和、家族連れも多くのんびりムード満点。そのせいか、リラックスして来て脳がフランス語の解読をしたがらない。耳には、次第に際立って来る日本語、導かれて、無事、桜の木の下へ。

そこは、ちょっとした日本人村状態。フランス人もわずかに見受けられる。両者共に、敷物をお尻の下に敷いて、お弁当を食べて、輪になってだんらん中。つまりお花見ですね。パリにいようと花は咲く、申し合わせたように集う姿が微笑ましいではないか。ちなみに、隅っこの方で誰かが木の根方に寝そべってるのを見つけると、大抵がフランス人カップル。ああロマンチックだ。お弁当もお尻の下の敷物もないようだが、酔っぱらって休んでいるわけではない。

パリの日本と言えば、オペラ座近くの rue Sainte Anneサンタンヌ通り周辺、日本関係のお店が立ち並ぶ。寒い日にはおうどんを食べたり、暇つぶしに日本の雑誌を立ち読みしたり、お陰で意外とホームシックにかからない。ちなみにこの地域はジュエラーに言わせると、ジュエリー下請けアトリエ街だ。もっとも、時代とともに多くの工房が閉めてしまったらしいが。街は、所属しているコミュニティーによって見え方が違ってくる。

在仏5年目の春、パリの桜も5度目。今や、仕事先で会うのは皆フランス人、歯の詰め物が取れたならば近所のフランス人歯医者へ、妊娠したらフランス人妊婦に混じって出産準備水泳教室へ。関わりを持つ共同体の比重は、日本からフランス社会へと確実に移り…。渡仏直後に語学学校で知り合った日本人友達は大方が帰国した。そして同時にフランス人の友達が出来た。こんなふうに新たな居場所を見つけて行くのだけど、それでもなお、だからこそ在仏日本人社会の存在を感じると心強い。なぜなら、フランスでは移民なのだから。フランスで生きる覚悟をし、まだ死ぬ覚悟はないのだけど…同郷そんな言葉が響きを増し出し。

一般的に言うとフランス人は、『お花見』なんて知らないよってなもんで、桜に対しても特別な感情移入はない。ところが、ここでは文句なくパリ4月の風物詩。”誰かさん”が見つけたパリだもの。

パリの桜も、日本の桜同様に人を開放感でウキウキさせてくれる。だけど、妖艶さや、不思議なあやうさを感じさせない。桜の下でふと涙が出て来たり、意識が遠のいて、気がふれそうなかんじに落ちることはない。この感覚こそ桜なのだけど、それをフランス人に説明するのは難しい。忘れがちだけれど桜はサクランボウの木の花である。そして大抵のフランス人は、この花のむしろ実の方に興味がある。

フランスでは桜というと日本、エキゾチックなイメージがある。そして石を彫刻しジュエリーを作るのが私の仕事。桜の花をモチーフにするからと、石選びから相談された。そのうちの一つのために選んだ石はローズクウォーツ。一口にローズといっても色合いは様々。ピンクでもなく紫でもない、微妙な灰がかった色合いを提案、それでサクランボウの花ではなくて、日本の桜を作りたいと申し入れた。
以前に手掛けた桜のジュエリーは、オパールローズ製。それはそれはロマンチックで私のボス、”フランス人”フィリップの世界が濃く反映された。だからそれに対して、”日本人”の私、の思う桜を表現してみせたかった。

パリの桜はいずれ、郷愁の桜としてジュエリーになるのだろうか。

じゃあ後でね、と言い合ったお花見のお相手がやってこない。間違いなく桜の下に居るのにな、おかしい。電話をかけると場所を間違っていたらしい。実は、白い桜の庭と濃いピンクのに別れていて、それらは少し離れた場所にある。どうやらもう一つの方に居たらしい。待ち合わせには花の色を確認すべし。それから、残念ながら花の色までは日本語を辿って行ってもわからないので、違う方の色についた場合はおとなしく人に訪ねるべし。それからそれから、公園内の犬は侵入禁止だ。

プチフランス語講座:fleur de cerisier[フルードスリズィエ] (桜の花)
quartz rose[クワーツローズ] (ローズクウォーツ)
opale rose[オパールローズ] (ローズオパール)

July 21st, 2011

『ジブレ』

季節の風物詩3〜春雨じゃ濡れて行こう?

三月の風物詩は giboulée『ジブレ』、この宮崎アニメのような単語の意味は通り雨。そして3月のジブレ『ジブレドマース』は春を告げる雨。つまり春雨なんだけど、日本のように柔らかな霧雨じゃなくてもっと激しい。

にわかに空が暗くなって強いシャワーのような雨を浴びる、と思いきやすぐに降りやみ黒い雲間から青空と光が差し込んで、そこら辺がキラキラ、雨に濡れてしっとり、これがジブレ。けっこうドラマティック。風流なんだけどしみじみ出来ない。
ジブレに遭遇すると軽くビシャ濡れだけどあはは!というかんじ。というのもすぐに乾くし、少し濡れた髪に水滴が光って人も素敵に見えるし、何より春が来てるという実感が心をはしゃがせる。瞳もキラキラ輝くってもんだ。

ジブレのこの急展開具合は、ヨーロッパの春の始まりに相応しい。そんなふうに長かった冬も一気に暖かく明るくなる。暗く重いどん詰まり状態は、2月にピークをむかえもうどうしようもないっと悲鳴を挙げたとたん春の通り雨に会って、そこら中輝いてサマータイム突入でもうバカンスか、仕事帰りにカフェのテラスでビールでも、となるわけ。

おまけに、ジブレの後雲間から差し込む光がまた神々しく美しい。救われた気分…なんちゃって、でもそんなかんじになる。しかし救い、なんて甘美な響き。誰に救われたのか知らないけどこのかんじに骨抜きにされると、辛かった冬なんか元々無かったかのように感じる。来年も確実にやってくるのは知っているのだけど。

そういえば…蟻とキリギリスなんてお話もありましたね。何事に関しても浮き足立った気分を戒めるのは簡単ではない。でも次の”辛い冬”を乗り切るため、以前にも書いたけれどフランスのコメディー映画2、3本も用意しておくと良いのでは、出来れば今のうちに。”備えあれば憂い無し”と言う、けど本当かな?

備えるといえば、傘。フランス人は傘をささない、結構な降り具合の時でも。濡れながら「関係ない」と言わんばかりにタバコに火を付ける。「そんなもんさしてられるか!」ですか?確かに傘を携帯するぐらいなら防寒用にストールか、上着をもう一枚持って出かけようかなと思う。確信犯で傘を家に置いて来る。備えない。そのうち、必要だと探してみてもろくな傘しか見つからないし、いざ出先でさしてみても壊れているか、又すぐ壊れる。軽く風に煽られたと思いきや、さして抵抗なくビニールはベローンと折り返り、骨もグイッッツと折れ曲がり…お見事ブラボー。少し高めの傘を買ってみたんですけどね、困ったことだ。!わかった。そもそもまともな傘がお店に売ってないのが良くない、そう、備えるなんてバカらしい。濡れて行こう。

でも本物の大雨の時、皆が一目散に走って行く中「私は持ってるの」なんて悠々と傘をさすのも好き。鞄からさっと取り出してシャキーン、ベローン。

プチフランス語講座:les giboulées de mars [ジブレドマース]

July 20th, 2011

『スペシャリストの手によって』

プロフェッショナルな世界のこと3〜C******、パンテールのように

Dessinateliste、Modéliste、Fondeur、Bijoutier、Joialliere、Sculpteur、Lapidaire、Sertiseur、Graveur、Polisseur、Plaquer、Fileteur

これらは全てビジュー製作に関わる職業名で、ざっと挙げてみた。小さなビジューだが、ウィンドーや写真でみるだけでは想像出来ない、たくさんのスペシャリスト達の手によって作られている。

そして、ビジュー製作の流れは大まかに言うとこの通り。

まずデザイン画、マケット作り、ワックス原形作り、鋳造。金属に変わったこれの地肌、形を整える。宝石を留めるための準備をし、飾りを施す。留め金部分やしかけの細工をしたり、全てのパーツが巧く組み立てられるように調整する。その一方で宝石を必要な形や大きさにカットしたり、彫刻する。そして、石留め、磨き、模様や文字彫り、色の調整を行い、組み立てて出来上がり。

このように複数のスペシャリスト、多くの工程で成り立っている。職種ごとにそれぞれ独自にアトリエを構えているので、ジュエリーはいくつかのアトリエを完成までに巡ることになる。

また、一口にアトリエといっても様々で規模やスタイルに違いがある。例えば大きなメゾンの専属下請けとして、シリーズ物を手掛けるアトリエもあれば、コレクション用の一点物を扱うアトリエもある。一工程だけを扱うアトリエがあれば、また大きく全体をカバーするアトリエもある。

「C******のアトリエで働く事がビジューティエとして最高に名誉なことで、自分はそのためにキャリアを積んだんだ」と語るC******の職人のインタビューを昔読んだ。C******の宣伝雑誌だったんだろうけど、心に残っていたので同僚に聞いてみた「それは本当か?」と。ところで、大きなメゾンは外に下請けアトリエを持ちつつ、社内に自前の職人を抱えるのが普通。C******のアトリエとは社内の工房のこと。C******の社員である。さて答えは、同僚によると、名誉だろうが退屈かもしれないとのこと。作業の細分化が進んでいると聞いた。つまりその結果、品質と共に効率の向上が測られているのだろう。でも、いつも同じ工程部分を担当するのみなんてつまらない。出来るだけ広い範囲の工程を受け負う方が、作業の種類に幅が出来て飽きない。同感。それに、なにより広い視野でビジュー製作に関われる。その方が好き。

またビジュー製作には、物理的な作業以前に、ブランド自体を扱う作業が存在する。C******のような、大きく古いメゾンでは特に重視される。ブランドの伝統と責任感がビジューと一体になって輝くためには外せない。だからここの働きが ”C******のビジュー” を創ると言える。

しかしその一方で、リーダーシップや誰かの輝かしいひらめきは活かされず、綿密な会議があまりに強い役割を果たしている印象がある。大きな組織は組織すること自体に莫大なエネルギーを使うのだろう。

コミッションを通過しなかったために、計画が一時期止まっていると聞かされる。また、忘れた頃になってディレクターからOKが出たとか出なかったとか。お客様にうけが良くてもC******らしくないなんて営業部の意見が聞こえて来たり。製作に直接携わらない部分の影響力は大きく、かつそれをこちらからは予測できない。

仕事の進み具合がどうであろうと、節目には計画をこのまま進めるのか、それとも変更をするのか、製作現場を離れたとこで検討されるのが常。それらの働きが必要で重要な機関であることは間違いない。が、時として重い。やる気があって士気が上がっているのに、のしのしと歩かされているかんじ。待ってる間にインスピレーションも熱気も逃げて行く。もう少し管理を緩めて身軽に動かせてくれてもいいのに。こっちもプロフェッショナルなのだから。それに、こういう委員会が行われる場所こそクリエイションを行う職業として位置づけられているのはどういうことか。メゾン全体の方向づけとビジュー自体の製作は質の違う仕事。だけど両方がうまく噛み合ってこそ双方共に生きて来る。だったらどちらもクリエイティブな仕事じゃないか、でもそうは認められていないと感じる。もっと自由と尊敬を感じたいとこだ。

C******クラスの完成度を持つ正統派ビジューは、最初からその姿で存在し続けてきたかのようなすました顔をしている。でもこの世の物は例外なく、この世に陰も形も無い所から始まる。こんなことを思うと見えて来るのは、C******の歴史が持つ魅力と重苦しさ。たった今製作しているビジューであっても、それ自身が存在する以前から続いて来たブランドの歴史をビジューは既に背負っている。

なんてクラッシックな世界、パンテールのように軽やかにね。

プチフランス語講座:
commission[コミッション](委員会)、création[クレアッシオン](創造)
classique[クラッシック](正統派の、古典的な、伝統的な/模範的な、典型的な)
panthére[パンテール](彪)

July 20th, 2011

『それはまるで舞台のよう』

プロフェッショナルな世界のこと2〜J**、top top

昔、パフォーマンスに関り、舞台美術をしていた頃にぼんやりと思った。”スペクタクルみたいな”展覧会 があれば面白い。でも、具体的なアイデアは何も無く、イメージだけがあった。まだビジューに関わる前の話。”スペクタクルみたいな”それは、こんなかんじ。

舞台はお客さんとの待ち合わせ、その時に集うかんじが喜びとなる。舞台上から、舞台裏から、そして客席から、それぞれの気分が一時に持ち寄せ合わされる。外界としばし隔離された劇場の、そんなかんじに特別な音色を聞く思いがする。それはもうスペクタクル。その日の興行の内容をも大きく包みこんでいる空気感を味わうのが好き。

J**のブティックを訪れた時、その昔の思いつきが頭をよぎった。そこはブティックというよりも劇場のよう。部屋は薄暗い小さな重厚な箱、ショーケースは一切なく机と椅子が置かれている。机の上に光が灯り、劇場内のごとき部屋をわずかに照らす。そしてお客様が来場し、幕が上がる。奥から次々にビジューが現れ、スポットを浴びてキラリ、深い陰を伴って浮かび上がる。お客のため息が聞こえる「マ•ニ•フィック…」。机を舞台にきらびやかなスペクタクルのはじまりはじまり…。

でも実はこのJ***のスペクタクル、頭の中にあるだけでまだ見た事は無い。私はお客ではなく舞台裏に訪れただけだから。暗くて埃っぽい、薄汚れたような壁の部屋は、まさに幕が開く前の白々した劇場の空気を持っている。机の上の照明はまだ点かず、隣の部屋から開いたままの扉ごしに無造作に光が差し込むのみ。机の隅っこに鉱物の原石や珊瑚。そして、このさら奥にも部屋があるようだが、扉はいつも開かずじまいで中はわからない。やはりビジュー達の控え室なのだろうか?

それでもやはり想像力は掻き立てられ、勝手に展開したスペクタクルは夢のような…そのまま幻想の世界。それだけ、J**のビジューは詩的な響きに満ちている。

ちなみにこの世界の要を奏でている旋律は、ここからとても近い所から、ここよりもっとはっきりと聞こえて来るのだが、なぜかそんなものは無い事になっている。”すごいのは一人”との演出なんだな。とにかくJ***J**、top top

プチフランス語講座:
le spéctacle[スペクタクル](光景、興行、演出)、magnifique[マニフィック](素晴らしい)

July 20th, 2011

『ジュエリーだって熟成させる』

プロフェッショナルな世界のこと1〜D***、ブリンッBリンッ

”J’adore D***”、フランス語なんて出来なくても解るはず。それくらいこのコピーは氾濫していて、そして、いつ聞いても苦笑を誘う。

こんなD***joaillerieのビジューコレクションの魅力は悪趣味につきる。わざと伝統的な趣味の良さや、エレガンスを避けてくる。ギリギリまでボリューム感を効かせてブリンッとやるのがD****っぽいというか、créatriceV*******好みか。デザイン、細工、石と、ビジュー製作に於ける全ての要素のクオリティーを、一定の水準に保つ本物のジョワイエリーがやるからこそかっこいい。保守的になりがちなジョワイエリーの世界だが、その中で抜きん出た存在。勢いを感じる。

アトリエの仕事で手掛けたD***のコレクション用の指輪、やはり、例外的に大きくブリリリンとミカン大。こんな指輪をつけた日には、肘掛けの付いたフカフカのソファーに腰掛けて、手にビズを貰うくらいしかできない。ところでこの指輪、もう随分前に製作を開始したものの未だに完成していない。というのも、コレクション用のビジューは、何度も変更や調整が行われるので最後の最後までどうなるかわからない。その上、これには前例の無いちょっとした仕掛けがあって、仕事は難しかった。それにしても、あまりにも時間が経ちすぎているように感じるこの頃である。完成した姿をみるのが楽しみなのだが…。

あれはかれこれ2年程前に一度私の手元を離れ、そして消息を断った。その後忘れた頃にボロボロの姿で戻って来ては、また出て行ってを繰り返し、最近になってまたアトリエで再会した。いくつかの計画の変更が伝えられ、今後は完成に向けて進む予定らしい。ずっと気にしていたので、知らせを聞いてほっとする。でも、どうしていたのか?何があったのか?ボスに訊ねてみた。が、結局のところ、あまりにややこしい事情が重なりすぎていて、追求しない方が良さそうな雰囲気…。

つまり、ビジューだって世間にもまれることがあるということだ。人の私が何十年後かにこの世からいなくなっても、彼の方はまだまだ顕在のはずだし、またそうであってほしい。だからこの2、3年の、私にしてみれば心配し、また少しイライラさせられた空白の期間も、彼の人生にしてみればたいした年月ではない。もしかしたら、人知れずひっそりゆっくり寝てたい時であったのかも。どこで何がおこなわれていたのか?私には知る由もなく。人もビジューも熟成されて育つ。

プチフランス語講座:J’adore ~ [ジャドー](とても好き)
créatrice [クレアトリス](女性の作家デザイナー)
bijoux[ビジュー](宝石、装身具)

July 19th, 2011

『デプリム』

季節の風物詩2〜je suis comprétement déprimée、もうダメ!

二月の風物詩は la déprime『デプリム』、”プリンを型から外す事”かな?料理の専門用語みたいなこの単語、実は気持ちの落ち込み、鬱のことを指す。

パリにいてふと意地悪な自分に気付く。しんどいのだな、と自覚する瞬間だ。通勤帰りのメトロの中だった。

パブに来たのと間違っているんじゃないか?と思うくらい大きな声で話す、縦にも横にもでっかいドイツ人観光客達が、ドカドカ車両に乗り入れて来て、それはもう楽しそうにはしゃぐのだ。心からそいつらに嫌悪を感じて、お願いだから消えて欲しいと心で願った。だけど、私の心は弱りきっていたので怒り続けることさえ不可能で、次の瞬間には涙が溢れていた。確かに迷惑な人達で、何を話しているのか解らないのも癇に障るし。だけどそれより心から楽しそうなのが気にくわないなんて、そんな自分がどうしようもなくて。もうダメ。泣いた。泣いたり、意地悪したり、されたり、文句を言ったり、言われたり。これが2月の風物詩だ。

それというのもパリの空がいけない。智恵子じゃないけど冬のパリには空がない。私のほんとの空には少なくともお陽さんがある。一冬中なんとか持ちこたえた心も、二月に来てもう限界。

ともかく泣いたり、怒ったり、叫んだり、そういう人間的な反応は何かある度毎に出しておくに限る。これが完全に落ちない秘訣だから。でもできれば笑って過ごしたい。

身近で手軽な笑いに、フランスのコメディー映画を紹介することにする。一般的なフランス映画のイメージからは思いも拠らない面白さがある。それにおフランスの”笑い”は鬱対策にかなり有効だ。フランスでは映画に限らず、権威のあるもの程ブラッグユーモアの対象として狙われ、多いに笑われるはめになる。そんな皮肉の効いたフランスの”笑い”が心を癒す。

まずパリ、クリスマスを舞台にした映画『Le Pére Noël est une ordure』サンタのコスチュームをしたホームレスが滅茶苦茶をして周りに大迷惑をかける話。建前と本音が交錯する会話が可笑しい。家柄良し、服装も良し、上品な話し振りの紳士、だけど彼のカトリック慈善活動は見せかけ。育ちの良いその同僚、でもその実態は色気ずいてるかまとと。親切で一見かんじのいいホモセクシャル、だけど不幸ぶりがうざったい。無害そうな外国人の隣人、だけど空気を読まないし、不思議な食べ物を持参する。
お近づきになりたくない人物大図鑑といったとこだけれど、実はこういったタイプはそこら辺中にゴロゴロいる。例に出した最後の外国人なんか、自分でもきれいにはまって、陰で文句を言われてかねない。たとえ親切心でも、保守的なタイプで暇なフランス人相手なら、例えば羊羹などをお土産に持参しない方が身のためかもしれない。おしゃべりのかっこうのネタにされてしまう。既に記した通り1月ならガレットだ、2月に入ってもまだダラダラと売っているのでそれで十分、好意は伝わるし無理矢理に美味しいと言わせる事にも無らない。

次に『東方の三博士』ピント来ただろうか?ガレットの由来になった3人組だ。その名も『trois rois mages』[トワ ロワ マージュ]で意味そのまま。聖書に登場する3人が、現代に現れて赤ちゃんのイエスを探すお話。三人三様に、聖書が語る彼らの人物像に「自分はそんなのと違う」と異議を唱えたりする。ブラッグユーモアたっぷりで、カトリックを随所で皮肉っているのが面白いのだけれど、教会が抗議したりしないのかと思わず心配してしまう。

戦争だってコメディーになって皮肉られている。『La vache et le prisonier』には、まったくやる気のないフランス人兵士、まじめすぎて機転の利かないドイツ人兵士、長いものには巻かれろ主義でおべっか使いの商人などが登場する。ドイツ軍に捕まったフランス人捕虜が牛とフランスに逃げ帰る話。潔くよくお国のために死ぬより、適当に巧く切り抜ける方が性に合うと宣言している。

『Soupe aux choux』は、おならで宇宙人と交信して、キャベツのスープで惑星に革命を起こす話。フランス人は革命を誇りに思ってるから、宇宙でもフランス人が出かけて行って活躍するつもりなんだろう。バカバカしい設定の中に田舎の開発や、意味なくあるお金や、若さや、まじめすぎる事らへの皮肉と批判精神が溢れている。宇宙人との交流も、フランス人が描くと隣人をもてなすのと大して変わらない。庭で穫れたキャベツのスープにワインで十分!農民にとっては宇宙人も外国人みたいなもんで、プルプルプル、プル!しか言わない宇宙語に、合いの手をうって「そうだろ、うまいだろう!」これで解り合えている。

フランス映画ならコメディーに限る。おしゃれじゃないのもいい。

おしゃれと言うと、塞いだ心へビジューティエだけに提案したいのはキラキラしたものを身に着けること。そうすれば、天気が悪くても自家発電のごとく光を放って身近な人も喜ぶ。”君は僕の太陽だ”とは良く言ったもので、実に的を得ている。だから、自分のパートナーに贈って着けてもらうのもいい。それにキラキラしたものをプレゼントされたら太陽の機嫌が良くなること請け合い。

そうですねお勧めは、キラキラの王様ダイヤモンド、太陽を思わせる黄色のシトリン、アンバー等でしょうか?これをペンダントやブローチにして、皆に見えるように着用しましょう。
騙されたと思ってやってみるべし、泣いたやつが言うのだから。キラキラしたものが2月の風物詩に加わる時は近し。

プチフランス語講座:la déprime[デプリム](落ち込み、鬱)
le diament[デイアモン](ダイヤモンド)